消耗していた毎日も、言葉を「自分定義」に置き換えたら、言葉に翻弄されづらくなった話

こころのこと

こんばんは幸子です。未熟だった20代が過ぎ、世間様の目が気になるお年頃の私は「日常の何気ない言葉」にモヤモヤすることが多くなりました。「普通」「成長」、よく使われている抽象的なワードこそ曖昧な定義があって、どこの誰だか分からない相手に考えを合わせにいこうとしている自分に嫌気がさしたりするのです。


ある日、シェアメイトの節子と「丁寧な暮らし」について話していました。
というのも、節子は最近自分の時間を長く取るようにしているのだけど丁寧な暮らしができていなくて、嫌気がさしてしまうんだとか。

それに、すごく共感した。

一方で、私たち自身が「丁寧なくらし」という意味を「理想のくらし」だと捉えてしまっていたことに気付いたんです。また、そもそも丁寧な暮らしって何なのか色々調べてみたのだけど、ある人は、整理整頓が大事だというし、ある人は手作りする温かみが大事だという。

人によって言葉の定義が大きく変わっている。だから、その自分定義を世の中の当たり前として発信すれば疲弊を生んでしまう。気付かないうちに自分も「当たり前」に他人をモヤモヤさせているかもしれない。そう思うようになりました。

何故こうも疲弊するんだろうと思ったことがあったけれど、言葉に遊ばれているんだと。曖昧な言葉ほど「自分定義」が大切で、それを自分だけのものとして、大切にしまっておく。「私はね、こう思う」として吐き出す。

そこで私は自分に「丁寧な暮らし」とは?を問いかけました。

――自分が心地良いと思える時間はなに?
しいて言えば、「何もない時間」「没頭できる時間」かなぁ。。
整理整頓と料理はたまにするくらいが楽であり、気持ちがよかったりするかも。

――なるほど。何気ない生活でそういったことに時間をかけたいということですか?
今はそうかもしれない。

――自分にとって心地良いって何ですか?
今は日々の生活の中で自分の気持ちに素直になることだと思う。

***

「今はそうかも」、これは自分の中から素直に出てきた言葉でした。ライフステージやその時の気持ちの変化によって、「心地よいと思えること」は変わるかもしれない。

大きな自分定義として「自分の気持ちを丁寧に扱う」=自分定義になったとさ♪

**追伸**

調べ物をしていると、同じテーマで考え事をしている女性に出会いました。
とても素敵な記事だなと思い、リンクを貼っておきます♡

「丁寧な暮らし」の“丁寧”の成分はなんなのかを考える|カナエナカ
わたしたちは疲れを自覚した 「成長」がテーマだった昭和・平成を駆け抜けて来た日本の多くの人々は、疲れてしまったのだと思う。 戦後、とにかく伸び代しかなかった日本は、復興のため、世の先進国と肩を並べたい一心で経済成長を追い求め、モーレツに駆け抜けるしかなかった。まだまだテクノロジーも発達する夜明け前の時代だったから、...
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